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乗客の命を救わなければ…自らの体を投げ出し、バスを止めようとした車掌さんのお話

以下サイトより引用
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1225650120/
http://www.ceres.dti.ne.jp/~zen/kinenhi.html



戦後間もない、昭和二十二年の事である。

その頃のバスは、木炭車であった。鬼塚車掌はこの日、木炭バスに乗り、満員に近い客を乗せ、打坂を上っていた。バスの中には、原爆治療のために病院へ向う人など三十数名が静かに座っていた。

ところが峠の頂上まであと数メートルというところで、突然、ブレーキがきかなくなり、バスはずるずると後退を始めた。
 当時の打坂は急こう配で片側は10メートル以上の深い崖がひかえ、運転者仲間に"地獄坂"と恐れられていた坂だった。

鬼塚車掌はすぐにバスを飛び降り、道わきの大きな石を車輪の下に入れたが、加速がついていたバスは石をはねのけ、崖まであと一歩と迫った。
『こいは、おしまいばい!!』
乗客皆が、そう思ったとき崖っぷちでバスは止まった。

乗客はバスから降り、土手に体を横たえ息を弾ませていた。
「鬼塚!どこに、おっとか!」
一時して、もう一人の運転手が怒鳴り声をあげた。
「バスん後ろん車輪に、人のはさまっとる」
乗客の一人が、こわごわと指さした。それは、車掌の鬼塚さんであった。

鬼塚さんは、どうしても止まらないバスを、自分の体で受け止めるようにして、車輪の下で息絶えていた。乗客は皆、口々に身代わりになった車掌にお礼を述べた。敗戦後の荒廃した社会の中、自らの命を犠牲にして乗客を救った鬼塚車掌の殉職は人々に大きな感銘を与えた。

それから、二十六年後の昭和四十八年に、その事を誰かが新聞に載せた。たまたま、その記事を目にしたバス会社の社長が、その日の内に緊急の役員会を開いた。「私が発起人になる。浄財を集めて、鬼塚さんを供養する記念碑を造ろう」
それから、一年後の昭和四十九年十月、事故が起きた打坂に記念碑とお地蔵さんが建てられた。

今でも、鬼塚さんの命日である九月一日に、毎年供養祭が行われている。
中には、毎月一日に、お地蔵さんにお参りをする人がいる。
いつ通っても、記念碑とお地蔵さんには、新しい花や柴が供えられている。






当時の木炭バスの写真
mokutan.jpg


お地蔵様の写真 「打坂地蔵尊」
070901-1328401_20081209221624.jpg


コメント

名無しさん

第2の塩狩峠だな

名無しさん

脱輪したトラックのタイヤが飛んできて自分に当る瞬間に
サイドブレーキ引いてバスを止めた運転手さんといい、
バス関係の人はプロ意識が高いのかね。

名無しさん

塩狩峠思い出した

名無しさん

 これでキリスト教信者だと、塩狩峠だわな。
非公開コメント

んんんん


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